1970大阪万博物語

1970年大阪万博とヒッチハイク

いまから五十年前、世間は大阪万博で大騒ぎ。来場者が6500万人。赤ん坊以外の日本国民はみんな出かけたわけだ。日本の人口がちょうど一億人を突破した頃のことで、どれだけの騒ぎであったことか。

あのころ、一番仲のいい同級生の野田芳雄(仮名)はパチンコで大儲けをし、高三で自家用車を買うほどの凄腕な奴で、彼とは放課後も街を一緒に歩くことも多かった。毎週末になるとパンと牛乳を通学鞄に詰めて、ロードショー三本立ての映画館に通った。入館料は二百五十円。ジェームス・ディーンの三本立てが印象に残っている。スクリーンの中には大人になることを拒む青年の葛藤を発見した。芳雄は世間に対しても無関心で受験勉強などどうでもよかった。将来の夢を語り合うこともなく、今を楽しんだ。次男坊同士で、僕とはなにかと気が合ったのだろう。

「カネは大事やぞ」というのが彼の口癖。一見ひ弱に見えるが、何でも独力で突破するタイプだ。あの時代の我々は、ベトナム戦争からビートルズまでも遠巻きに眺め、世間から三無主義(無気力・無関心・無責任)とか、シラケ世代と揶揄された。大学へ入ると、革マル派、中核派の残党が〈安保反対〉でなく〈授業料物価スライド制反対〉を叫び騒いでいた。校門はロックアウトされていて、入ることもできなかった。お互い別々の大学に進学してから一度も会っていない。

高二の秋、中間試験明けのある晩、芳雄と僕は示し合わせて、

「大阪万博へ行こう」

僕はヒッチハイクを提案した。学校を引けると自宅で寝ダメし、夜を待って行動開始。東海道線で米原へ向かった。駅を降りれば線路わきに国道が走っているからだ。列車を降りると国道21号線に出る。なかなかトラックは止まってくれない。歩き疲れると交代でトラックに向かって手を挙げた。そうこうするうちに深夜。しかたなくふたり西に向かってトボトボ歩きだす。通行量も少なくなり諦めかかっていると、怪しげな黒のクラウンが止まってくれた。一瞬躊躇した。遠目に見ても怪しい車。我々の前を通り過ぎたところでクラウンは路肩に停まっており、運転手が手招きしている。断るわけにはいかない。芳雄と僕は互いに見つめ合い、

(おい!どうする?)

と目を交わすが、開き直って乗せてもらうことになる。後席に二人乗せられ車が走り出してすぐに気付いた。前席の二人の会話を聴いていると、どうも運転しているのが親分。助手席には子分を乗せている。

通り一遍の会話を進めるうちに突然声が変わる。運転するアニキは太めの声で、

「わしの背中にゃ刀傷もあるんやで。お前らをタコ部屋に売り渡したろか」

脅してきた。凍り付いた。クルマはかなり飛ばしており、僕らはスピード緩めたスキに逃げようと合図し合い、気付かれぬようドアノブを握る。我々の声は上ずっていたに違いない。あとでアニキは笑いながら関西弁で、

「アレは冗談やった」

「ごめんごめん」

そう独り芝居を演じた後、お詫びに、

「メシ奢ったるわ」

深夜のドライブインのカツ丼が旨かった。ガツガツ食べる姿をアニキは楽しそうに見つめていた。店内ではシャツをまくり上げ本物の刀傷をみせて彼は自慢した。逢坂峠まで回り道して送ってくれた。

この峠を越えれば京都だ。ふたり並ばずある程度の距離を取りながら峠を目指して歩き出した。二人連れでは相手が警戒してなかなか車を停めようとしないからだ。三十分は歩いたろうか。時折止まってくれそうな深夜便のトラックを探すが、見込み薄。仕方なく二人とも揃いのズタ袋を担ぎトボトボ国道の左側を歩いた。ここまで何台かのトラックを乗り継いだが、降ろされるとふたたび歩き出す。お腹もふくれていたため眠気が襲ってくる時間。深夜の二時頃だった。

(しまった!)

気付くのが遅れた。後ろを歩く芳雄があっという間に大人二人に取り押さえられた。さすが慣れたもので小脇を抱えられ宙づり状態の芳雄。僕はなりふり構わず友達を見捨て、一目散に駆け出した。しかし前方の坂道から下るように、新たな大人二人連れが走り寄ってくる。国道にはトラックがひっきりなし。逃げ場はない。

(絶体絶命)

僕は諦めた。あっという間に取り押さえられてしまう。予想もしていなかった。なんと本職の刑事。用意周到だ。すぐ後ろにはパトカーまで来ているではないか。おとなしく捕まるしかない。逆に僕は安心した。ヤクザのアニキよりましだ。

ふたりはパトカーに押し込まれ派出所に連行されると、別々に尋問が始まる。

芳雄はポケットに煙草を仕込んでいたものだから、こってり絞られた。

「とにかく朝一番の列車で帰れ」

「学校に連絡するのは止めたるわ」

ここでも刑事に脅されることになった。笑うしかない。派出所で朝まで留め置かれ、いや保護され、最寄り駅までパトカーで送ってくれた。

パトカーを降りると、ここまで来た僕らの意地だ。上り電車でなく大阪に向かう列車を待った。始発の普通電車を待ち京都に向かう。ここから京都までは知れた距離だが、その後の記憶は遠のいている。

京都駅前からまた歩き出す。二条城前のベンチでズタ袋を枕に新聞紙を被って寝た。寒かったが眠気が勝った。お金もないし観光に来たわけでもない。どこをどう歩いたのかも記憶がない。この十月終わりの旅はとても塩辛いものだった。大阪まではたどり着けなかったが、高校生二人、世間の厳しさと暖かさを同時に思い知るには十分な旅だった。飯を奢ってくれたアニキ。ウィスキー片手に大型トラックのハンドルを握るドライバー。そしてやさしい刑事達。今ごろ芳雄はどうしているだろう。

こんな目に合うなんて。青春万歳。

琵琶湖疎水。大津には青春の苦い思い出が詰まっている。

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