H.M先生

私が17年ほど前から師事している「禅」の第一人者・HM先生。毎月定例の研修講座はいつも満席。2018.4.25に開催された研修の模様をお伝えします。

この日は禅語「莫妄想」(まくもうそう)について、二本の座禅タイムを交えながら解説していただく形式。毎回そうだ。

明日香村にて。この写真撮影当時1971年は「飛鳥」と呼んだ

以下、先生の言葉の要約です。

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「莫妄想」を具体例で説明すると、例えば、自分の耳に音が聞こえてくるとする。その音の距離は?どちらから聞こえるか?などと思考を使えばどこまでも自分中心に捉えてしまう。これを思考を使わずに聴けば...ただの音になる。自分は居なくなる。その方向も時間も過去も未来もない。

思考そのものを吹っ切りましよう。

この世界は全く実体がないものなのです。

この意識が思考で作り出しているに過ぎない。心配すれば心配をどんどん呼び寄せる。

それより心地良さを追求するべし。自ずとすべては好転する。

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聴講者からの質問は様々飛び出すが、師は「和顔愛語」とも言うべき包容力で「一切は空」の観点からお答えになる。

師は圧倒的な「無心」に立脚するからこそ、超越的な存在感が場内を包み込む。決してオカルトや新興宗教なんかではありません。この講座に皆様をお連れしたいところですが、会場はいつも満杯で入り切りません。これ以上の参加は無理なんです。

他にも講座メモが多数ありますが、基本は禅語の解説です。以下私のメモを原文のまま紹介させていただきます。

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●『而今即応』(にこんそくおう)

=今こそ仏に出会うその時。いまここ

●『一切委任』

『委ねる』=明渡す

思考=抵抗とはエゴの固まり。まず静寂から始まる。

いつの間にか委ねることも無くなり、『あるがまま』へと導かれる。

"Do"ではなく"Doing"=ただあることである。

達観すれば絵を描くではなく、描かされていることになる。

臨終のときに分かったのでは遅い。

●「足音感動」=感じること。

この足指にも命が宿る。足の小指に繋がっている神経。爪で擦ると快感が走る。

いずれわかるでしょう。この世の一切のネーミングを止めたら、この自分もなくなる。

いずれ悟るでしょう。

雨の佐川美術館。明り取りの天窓

●到知感謝

思考の先には答えがない。「諸行無常」だ。

思考するな!はウソ。思考が生まれる一秒前、ただ在る状態。どうしようもなく私は在る。

執着している、怒っている、イライラしている自分を眺めてみる。

思考即ちエゴ。これを考えてるのは自分ではない、そう切り離すこと。

もう思考の世界に行かない。そう覚悟する。

全てが一つの意識であり、たまたま私というものが反応しているだけ。

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以上書き連ねましたが、説明不足の点ご容赦ください。以下は私の個人的な思い付き(オチ)です。

私は『丹田生命体』。

正しく命を運んでいるのは、身体の中心にある丹田だけ。自分はそこに乗せてもらっているに過ぎない。その自分はいったいどこにある? いったいどこに向かう?

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