「雨ふるふるさとははだしであるく」
この句に魅かれて俳人・山頭火に興味を持った。1934年東京大学経済学部を卒業し、日本銀行に入る。戦後勤務のかたわら中村草田男、加藤楸邨に師事し、俳句活動に入る。現代俳句協会賞を受賞するも酒におぼれ、家族を捨てて出奔。出家したが長くは続かず、句作で知り合った友人を訪ね全国を漂泊する。自らの〈存在〉戦い、〈自己〉への執着とも戦った。自由律俳句を詠むには自らをここまで追い込んだのか。
もう一句、
「なんでこんなに淋しい風ふく」
父の事業は破産、母は屋敷の古井戸に身を投げる。一家離散も、
(お前のせいではないか)、そう思ってしまうが。
「おちついて死ねそうな草萌ゆる」
また、山頭火は「四国遍路日記」も残している。徳島県立文書館で展示があって出かけたが、肉筆に触れて感激。誰の所蔵品なのか不明でしたが、内容を正確にリライトしてくださった方のサイトから以下拝借しました。↓
https://www.aozora.gr.jp/cards/000146/files/44914_18742.html
十一月三日 晴、行程八里、牟岐、長尾屋。
老同行と同道して、いつもより早く出発した。
峠三里、平地みたいになだらかだったけれど、ずいぶん長い坂であった、話相手があるので退屈しなかった、老同行とは日和佐町の入口で別れた(おじいさん、どうぞお大切に)。
第二十三番薬王寺拝登、仏殿庫裡もがっちりしている、円山らしい、その山上からの眺望がよろしい、相生の樟の下で休憩した、日和佐という港街はよさそうな場所である。
途中、どこかで手拭をおとして、そしてそのために一句ひろった、ふかしいもを買って食べ食べ歩いた、飯ばかりの飯も食べた、自分で自分の胃袋のでかいのに呆れる。
途中、すこし行乞、いそいだけれど牟岐へ辿り着いたのは夕方だった。よい宿が見つかってうれしかった、おじいさんは好々爺、おばあさんはしんせつでこまめで、好きな人柄で、夜具も賄もよかった、部屋は古びてむさくるしかったが、風呂に入れて貰ったのもうれしかった、三日ぶりのつかれを流すことが出来た。
御飯前、一杯ひっかけずにはいられないので、数町も遠い酒店まで出かけた、酒好き酒飲みの心裡は酒好き酒飲みでないと、とうてい解るまい、おそくなって、おばあさんへんろが二人ころげこんできた、あまりしゃべるので、同宿の不動老人がぶつくさいっていた。
「どうしようもない私が歩いている」
山頭火を評して「無」と「空」、「自虐」などと語られているが、私は「徹底的な自己への執着」と感じる。「俺はここだ!」という叫び声が聞こえる。「どこまでも素直」な彼があるからこそ詠めた気がする。