ShortStory "使い道のない時間"

列車から降り立つと、彼は得もいわれぬ開放感を感じる。

この写真は記憶ではJR東海本線の関ヶ原辺り

(こんな時間に駅に降り立つのは久しぶりだ)

ここを起点に大阪までふたりでヒッチハイクした遠いあの頃を思い浮かべた。

(あれはひどい目にあったなあ)

彼は同級生の野田の顔を思い浮かべた。あのとき警察に連行されたり、はたまたヤクザの車に拾われたり。もう後戻りできないと覚悟を決めたことを思い起こし苦笑する。

通勤帰りの時間というのに、街角の人陰の少なさにすこし驚く。虚ろな時間を持て余すことは覚悟していたが、今回はなんの予定も入れないまま、新大阪から飛び乗ったのだ。

JR大垣駅は南口も拡張されて地方都市にしては意外に整った構えになっている。北口からは長い連絡通路がショッピングセンターまで続く。どこにでもあるメガマートだ。彼は流れのまま、生家に近い南口に出た。携帯のサイドボタンを押して時刻表示を見る。

(もう六時かぁ。寒そうな夕陽だ)

同級生の誰かに会いたい訳でもなく、個食も退屈する。分かっていたがこんな時は寿司屋に限る。

暇そうでそれでいて老舗らしき寿司屋を探した。アーケードを南北に両側をつぶさに歩いた。そして目星をつけた「寿司辰」の暖簾をくぐる。蝋で出来た寿司のサンプルにホコリが積もっていた。

「エィ!ラッシャイ」

カウンター越しにいかつい男の声。彼のマメしぼりが顔のデカさを強調している。年の頃は30代終わりとみた。カウンターは10mはある。カウンターの反しも飾りでなく見事に彫られている。檜のいい香り だ。一番奥にご主人が陣取っていた。客はもう一組二人連れ。天井近くに18インチTVが吊ってある。客は巨人阪神戦に興じている。地方 の寿司屋はどこでもこれがお決まり。もともと客待ちの店主が観るためのものだ。一概に邪道と言ってはいけない。この不況でも店を維持している。

「お飲み物は?」

少しふてくされた顔を明るいトーンでごまかしながら近づいてくる。

(お決まりのアルバイト店員だ)

「じゃあ生ビールで」

その間にネタの鮮度を吟味しようと、ショーケースに眼をやる。こちらは新規の客とみて、マスターは敏感に反応する。

「八海山ありますよ」

「じゃあ後でもらおうか」

太ってデカ顔の従業員と狭いカウンター内で互いの体を入れ替えると、

「お造りでいきましょうか」

「うーん!何か握ってもらおうか」

彼はこんな時決まって、

「白身なんかある?」

「鳴門鯛なんかどうです?」

「じゃぁそれ握って」

「一巻にしましょうか」

「いや二巻で」

彼は腹が減っていたのだ。マスターはこちらの素性をまだ計りかねている風だ。会話の糸口を探している。デカ顔が横から会話に割って入ってくる。

「お客さん。通はやっぱ白身ですね」

(余計な口たたくなあ)

そう思いながら勢いよくビールを飲み終わると八海山を燗で頼んだ。食は進み蓮根の煮物をつまんでいると、絶妙のタイミングで、

「トリ貝の身は生きている間透き通ってるんで」

マスターはデカ顔に向こうの客を任せると、こちらに意識を向けてきたわけだ。

「トリ貝ってこれですか?」

「ふつうは火を通してネタにするんですがね」

「お客さん生で食べたことあります?」

あまりに見事な透明感と締まった墨色の身に納得。彼に躊躇はなかった。

「じゃあそれいってみようか」

一口入れると、紛れもなく磯の香りがする。知多半島の香だ。

マスターは話し始めた。創業68年で彼は3代目。紡績会社が撤退してから大垣の街が沈んだこと。

しかし眼前の彼には静かなプライドがあった。謙虚さの中に溢れる職人の自信。

食べることが人生のすべて。そう背中で語っているようだ。

© 2024 阿部写真館 徳島本店,大阪本町靭公園前店,茨城プレイアトレ土浦店