書きかけ小説➅「パラダイス画家」

書きかけ小説にお付き合いいただくだけで、感謝せねばなりません。一部の方から貴重なご意見をいただきました。あわせてお礼申し上げます。あと5本ほど書きかけが残っておりますが、このさきどうなることやら。

本郷一平氏のオブジェ作品「天上界シリーズ」より

「ハピネス」

 

「左斜め上にハピネスが見えたんや、ホントに」

「ほんでな、この絵の題名を、《Toword Happiness》にしたわけや」

「一平(いっぺい)さん、どう思う? 」

M氏にとって、よほどの自信作なのだろう。この絵が。

本条(ほんじょう)一平(いっぺい)は昨日、M氏から電話をもらって勅使河原裕史(ひろふみ)も誘った。蒸し暑さを残す夏の終わり。二人は背丈ほどに伸びたカラスムギに行く手を遮られながらも、裕史の運転する四駆で駆け上がっていく。一平にとっては二度目の訪問であるが、やはり道に迷った。道を尋ねる相手もいない。幾重にも枝分かれしていて方向転換も無理。前へ進むしかない。住人でも迷うだろう。しばらく進むと突然視界が開ける。緩やかな山の北側斜面にへばりつくようにして建つM氏の自宅兼アトリエ。そして牧場だ。この山中に驚くほどの規模で、広大な馬場を中心にして棟が五か所に点在している。裕史は度肝を抜かれた。居住棟を中心に馬小屋、アトリエ、ギャラリー、そして迎賓用ロッジ。これらの施設を取り巻く雑木林は都合よく近隣からの視界を遮り、おかげでM邸はまったく人を寄せ付けない異次元空間。二人はギャラリー棟に招き入れられた。

「急に言われてもなあ。なんか謎解きみたいやな」

「いったいここに、どんなハピネスを見つけたんですかね」

いきなりの作品談議に二人は何も感じられず、会話の行く手が全く定まりそうにない。M氏は、

「画面の中で主題の配置に苦労したんじゃよ」

「このピンクハートの位置が重要なんですね。斜め上に一つだけ配置するというのは、予想外の一手というわけなんですね」

裕史は一平の代わりに合いの手を打つ。一平は絵を見て考え込んでいる。

絵は四号程度の大きさ。黄緑色のべた塗り背景に、ピンクのハートが横に四つ並んでいる。よく見ると、それぞれのハートに濃淡があり、一つは真ん中でひび割れたように赤い割れ目がある。おそらく下塗りが割れ目から顔を出しているのだろう。中央の二つのハートには、それを結ぶ赤いラインが引かれている。どういう意図か、四つのうち左端の一つだけが上にズレている。ただそれだけ。初めて油絵具を使う小学生が描いたのでは、と思わせる稚拙さだが執拗に塗り固められて油絵具が盛り上がっている。裕史には何とも褒めようがない。だがM氏は画家と名乗る。よほどの自信作が出来たから一平を呼んだわけだ。

ここに身を隠すように暮らすM氏の正体は、グローバルな資金運用を任される国際シンジケートの親玉。きょうの彼は、一平の来訪を待ちわびていたかのように、大事な秘密までもよどみなく喋る。裕史からすれば、興味深い世界だが、ただの独居老人ゆえの悲しさと映る。彼の唯一の友人である一平も彫刻やオブジェの作家を自認する。本業は額縁店でギャラリーの経営者でもある。M氏から「傑作が出来た」と、年に何度か額装の依頼が入る。きょうはM氏と初対面の裕史を引き連れ、おまけに写真家として紹介してくれたことでM氏からの信用も得られたのだろう。一平の配慮がうれしい。心を開いてくれたM氏は雄弁に語る。おそらく数か月は誰とも会話していないのだろうが気味の悪いほど機嫌は良い。

「ここに画家と彫刻家、そして写真家が集まるとは凄いことやなあ」

ギャラリー棟で一通り作品群の紹介を受けると三人は居住棟へ移動した。親しい客だけを招き入れるようだ。六人掛けのダイニング・テーブルを三人で囲む。桜木で出来たと思われる不釣り合いな椅子を勧められた。ここはオフィスも兼ねているようでモニターや通信機器なども並ぶ。

「わしなあ、このまえ京都で誰と会うとったとおもう? カダフィ大佐じゃよ。それはもう、芸妓はん呼んで朝まで歓待したから、大変な喜びようじゃ。わしの描いたこの絵を二万ドルで買いよった」

「え? それは何か特別な取引をしたんですね」

「そうじゃ、わしにとってもこの取引が最後の仕事と思ってな」

裕史の関心は仕上がったばかりの〈ハピネス〉にはなく、国際シンジケートのボスとして、カダフィ大佐とどんな裏取引をし、カネはどのルートを流れたのかを知りたいが、それは企業秘密だろう。話を聴くうちに、カダフィに渡った絵画はいわば取引の証拠品としての扱いらしい。取引の場面で自分の絵を領収書代わりに買わせる。裏取引ならではの証拠の残し方。金額は御祝儀相場だろうが、そこはしたたかなM氏ということなのか。

「ひょっとしてMさんの世界にはC.I.A.もK.G.B.も登場するんでしょうね? 」

「まあな、互いに利用し合っとるかもな。わしらの世界も意外と義理人情が大事なんやで」

そうなのだろう、きっと。ただの自慢話ではない。かつて彼はトヨタの組み立てチーム長をしていたと語る。その彼が小さな国の国家予算規模のマネーゲームをしている不思議。画家にふさわしく現場重視の職人気質で、意外と物欲はなさそうだ。通された居住用のロッジを眺めまわしても決して派手な生活ではない。敷地こそ広大だが、つつましい生活だ。最近組織の議長を引退したらしい。この部屋に招き入れられて目に止まった。わざわざリビングに大切そうに飾られた鞍。”L・V”のロゴが入っている。これはかなり高価だろう。隣には大きな木彫りの象。目立つのはそれくらい。世間から見れば海外旅行好きな、ただの世捨て人だ。馬術が趣味で馬を飼っていることは、特段驚くことでもない。...(続く)

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