未完小説「カモメとクロワッサン」

例によって未完小説。この拙作は原稿用紙換算で、100枚を超えている。最終章数十枚がが未完のままだがそのまま一部を転載した。こうして塩漬けにされたまま10年放置すると、今さらだが時代背景に違和感を感じる。何を描きたかったのか、作者本人も分からなくなっている。

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7. カモメとクロワッサン(冬)

裕からときおり誘いのメールが入ってくるけれど、それは半ばジョークのよう。返事を送らなくても済むような文面にしてくれる。それは彼特有の配慮であると同時に、断られた時に自分を守る安全弁を仕込んでいるのだろうか。私の負担にならぬよう細心の注意を向けてくれることには感謝している。彼のサービスマンとしての意地からだろう。一度でも男に体を許すと後はみんな同じと、よく女友達の間でささやかれる。そんなありきたりの言葉が沙羅の脳裏の一部に入り込んではいるものの、自分の生き方が〈わたし〉の中の心地よさ(・・・・・)という基準に軸足を移すとどうしようもなく、言葉に置き換えることも困難で、そこには裕も健吉も必要なかった。

「あなたといられるのは短い時間だけど

ほんとに…なんの気負いも無く…

まんまでいられる…

なんて…有難いんだろう

でもしばらくメールこないとさみしいな」

仕事の合間に裕に送信した。沙羅は思いついたらもう送っているが、これが裕に初めての告白。たとえメールとはいえ、記録保存されるものは控えてきた。めったに自分からメールを送ることはないが、いつも気には掛けてるつもり。文章の体を成していないが、分かって欲しかった。出逢った頃、裕に言い放った空っぽ(・・・・)のフレーズは自分でも忘れたわけじゃない。いや実践している。メールだからストレートに出てしまったのだろうが、気まぐれな自分をよく表していると呆れる。意地悪な私だ。すぐに裕からの返信が来た。

「一緒に暮らそう」

珍しく返事に詰まらせること言ってきた。ちょうど会社の休憩時間なので沙羅はすぐに返信した。

沙羅から挑発しておいて突き放すように返信する。

「一緒に暮らしたいなんて、無駄な考えよ。それぞれ時間の使い方も生活のリズムも違うし、続けたいのなら互いを束縛しない関係がいいかもしれないね」

すぐに裕からの返信が届く。

「明晩の予定は空いてる? 逢いに行こうか」

「僕はいまシチリア島のパレルモにいる。いいところだよ。でももう帰ろうかな」

接点ができるとすかさず寄り添ってくる彼を、沙羅はまるで自分のペットのように扱っていると言われても否定できない。他人事のように扱う沙羅のクールな態度。相手に媚びない、もうひとりの沙羅がいる。それを分かって付き合ってくれるのは裕だけだ。私に答えを求めると相手は問い自体を見失うことになる。健吉には理解できっこない。

どこかで見たような古い町並みの写真をメール添付してきた。とても人通りが多い。真夏の様な日差しの中、キャップを被りタンクトップ姿で歩いている。その背景には古めかしい劇場のような建物が写っている。エンタシスの柱が六本そびえ立つ。どこかの街で見かけた雰囲気が懐かしい。立て続けに裕からのメール。

「ここは映画ゴッドファーザーに出てくる暗殺現場の劇場だよ」

「じゃあ、お土産買ってきてね」

「でも身に付けるものはだめだよね」

しばらくチャットメールが続く。

いつも彼は意外性を大切にしてる。それ好きなんだなあ、

会社のデスク後ろには西に突き出した小さな出窓があり、それは季節の移り変わりを見せる額縁の役目を果たしてくれる。この冬には珍しく夕焼けに浮かぶ二月の繊月を沙羅は窓から見送った。

いつもジョークで切り返してくる余裕が彼のいいところなのに、シチリア島からの返事はそれきりない。カラスの一群が窓枠の中を騒々しくわめきながら帰っていく。近づく男をこうして私は遠ざけてきたなどと言うつもりはない。いやそんなことは考えてもいない。カモメのように他人の巣を狙うのは正義でないなどと裕は思ってるはずだ。時間をかけて裕は自分を納得させていくのだろう。

会社を定時で退出すると車を走らせる。すっかり暮れて寒さが身に応えるが、今夜の私はヨガレッスン。その後は教室のみんなとのお茶の時間が待っている。メンバーと共に過ごす楽しい時間は失うわけにはいかない。景子先生の話が印象的だった。ひきつめの髪に眉を描き足すだけの薄いメイク。儚さを漂わせながらヨガに打ち込む姿がとても健気で、彼女の美しさには透明感という表現がぴたりとくる。あんなに心を砕いて深い話が出来て沙羅は満足だった。いまの自分に最適なエピソードを先生から贈られたみたいだ。

景子さんはお茶が出されるのを待つ間もなく、開口一番旦那さんの浮気について語った。

「私は前の旦那とずっと一生添い遂げようと思ってたのに、子供もできなくて。でも欲しくて不妊治療を八年も続けた。後でわかったけれど、原因は私じゃなくて旦那さんに精子が無かったことが判明してね。それでも何とか産める方法に取り組んで、不妊治療頑張ってみた。ある日、旦那さんからメールがあり、どうやらそれが相手先を間違えて送ってきている様子で、その内容にびっくりした。

『どこそこのホテルで待ってる』

そんなメールが私のスマホに届いた。それでも私は、(相手が若い女の子でボインなら仕方ない、許そう)と思ってたんだけど、運悪くそれは身近な自分の友だちだった。許せなくなってしまった。これはもう仕方がないなと。結局は離婚になったの」

淡々と語る姿に、沙羅は少し涙ぐんだ。その事件は偶然にも三年前のことだった。

今夜も遅い。沙羅は自宅に戻ると、健吉は先に帰っていた。車が停まっている。玄関扉前の自転車が見当たらない。こんな寒い中どこに行ったのだろう。気温は氷点下に近い。彼はきっと深夜のご帰宅にちがいない。どこで何をしているのか、互いに訊くこともなくなっている。玄関ポーチでバッグの中の鍵を探っていると、スマホの振動音が聞こえる。

「今夜はオリオン座流星群が観られる大切な夜」

裕からメールが届いた。もう日本に帰ってきているに違いない。いつも彼はいろんなことを教えてくれる。「大切」なということは、つまり一緒に観たいという意味なのだろう。謎解きのように彼は言葉に何かを掛けてくる。子供の頃を山里で暮らした私にとって流れ星は当たり前。手を伸ばせば銀河に届きそうな夜空がいつもそこにあった。すぐには返信しなかった。でも沙羅は流れ星を見せてくれるとばかり温まるだけの入浴を済ませると、健吉の帰りは待たずに三階へ。照明も点けずに手探りで、三角屋根に埋め込まれたスラント窓のブラインドを開け放った。窓ガラスに張り付く落ち葉が少し視界を邪魔していたがオリオン座を探す。天空より少し南西寄りだが、輝く三つ星を見つけ、そのままベッドで待ち構えていたつもり。だが結局寝入ってしまっていた。気付くと六時前。空は少し明け始めている。急いでバルコニーに回ってみた。明けの明星が東の空にひときわ輝く。オリオンはかなり西に傾き見つけられない。裕は夜明け前が見頃と言っていたが、そんな早朝に一緒に過ごせるはずもないことは分かり切ったこと。

「寒空の下で一時間も粘って夜空を見上げていたけど期待外れで駄目だった」と、二度目のメールが届く。彼は願でも掛けていたのかもしれない。返信はしていない。

ま、いいか!

わたしのいつもの口癖。このフレーズはまるで沙羅自身に向けた救いの呪文のようでもある。冷えた身体を温めようと再び毛布にくるまっていたが、決心をつけるとベッドを離れる。沙羅は起き上がると一日で一番大切な儀式に取り掛かる。朝一番の入浴。ゆっくりと浸かる。その間は何も考えることはしない。思考は停止している。そして長い髪から丁寧に洗う。リンスの後、頭皮のマッサージはまるでテアテを施すかのように指先の力を抜き、時間をかけて出来るだけゆっくりと手を動かす。そしてしっかり入念に全身の手入れをしていく。愛しさを込めて、ボディと対話しながらだから、浴室でたっぷり一時間は過ごす。

(冬の乾燥が一番大敵だしね)

浴槽から上がりバスタオルを巻きつけると、仕上げは保湿クリームを両掌で全身に伸ばしてゆく。もちろん首筋から足裏まで。その時におまじないのように、

(わたしのからださん、ありがとう)

言葉をかけてゆく。それが三十年前からの習慣になっている。腹部と太ももにはセルライト除去クリームも忘れず使う。気になるのは自分の下腹部に残る妊娠線。これはどうすることもできない自分の生きた証。

(妊娠線は少し消えかかっているかも)

そう自分の腹部におまじないを掛けることを忘れない。保湿乳液をベースにし、メイクアップは最低限。眉を描き足し、唇と同色の口紅を引くだけ。素肌そのものを大切にしてきた。キッチンに入ると沙羅はスマホからマイスキーの無伴奏曲を選んでプレイボタンを押す。ふといつもと違う何かが浮かんだ。

きょうは健吉に朝食を作ってあげよう、

朝の儀式を終えたときに浮かぶ思いは、宇宙から私に届けられる指令。時々降りてくる。でも何年ぶりの心境だろう。健吉はきっとびっくりするに違いない。

そうだ、全粒粉のクロワッサンがいい。「くまごろう」のパン美味しいんだよなあ、

裕から届けられたものだけど。まっ、いいか! シナモンティーも淹れようかな、

不意に「別れの朝」って曲の歌詞が浮かんだ。

あれは「冷めた紅茶」だったなあ、

以前、裕が私に語っていた言葉も思い起こしてみる。思いがけないのでしっかりと記憶に残っていた。「朝食は夫婦の基本だよ。一緒に食べないとね」

だからクロワッサンが届いてたんだ、

気遣いを込めたんだ、

鈍い私はクロワッサンの意味なんか考えもしなかった。裕と並んで摂る朝食はどんなにか素敵なことだろう。彼とは楽しい思い出ばかり。それはこれからも積み重ねていくかもしれない。遠ざかっていくかもしれない。沙羅にとってはそれで充分だった。私の答えはどこにもないから。

わたしが決めることじゃないし、

明日のことまで考えなくていい。会話もいらない。わたしが満ち足りていれば、健吉も不満はないだろう。

必要以外の会話をしなくて済むような関係、とてもシンプルで素敵なことじゃない、

沙羅の頬になぜだか涙が一筋伝う。私の中のわたし(・・・)が沙羅に「シアワセ」を伝えるため、サインを送ってきたに違いない。

きっとそうだ。もうひとりのわたしが励ましてくれている、

ダイニングの白い出窓から朝陽が差し込む。ちょうど食卓にまで陽光が届く。暖炉に火を入れる。藍染のランチョンマットはいつものように二枚を差し向かいで敷く。カップボードの奥から取り出してきたティーカップを二客並べた。コーヒーより紅茶を好む健吉には白のジノリ。深紅のマットによく映える。これにはなぜか濃緑のサクランボが描かれていて、衝動買いした。私のカップには青い薔薇が描かれ、ゴールドの縁取りが実に美しい色の組み合わせだ。しばらく沙羅は眺める。ティファールのポットに水をきっちり六百CCの目盛まで注ぐ。電気オーブンは百八十度で余熱三分にセット。しばらくキッチンに佇んでいると、

「チーン!」

オーブンから余熱完了の合図が流れると同時に、まるでシンクロするかのように寝室のドアが開き健吉が起き出してくる。沙羅はジャージ姿の彼に、

「おはよう!」

「クロワッサン食べる?」

沙羅は目が潤んでいるのを隠すかのように顔を少しそむけたが、向き直りながら健吉に笑顔を送ることは忘れなかった。

これって至福の涙だよね、きっと、

そしてふと浮かぶ。

いまはどっちの私?

もうひとりのわたしは裕に向いてるよ。ずっとあなたと一緒だよ                                           .....................................................................................................................(了)

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