「Bar CREVA」--自作小説の一節

今から40年以上前の出来事だ。アルバイト先のバーの先輩で中井との出来事。同じバーテン仲間。実は彼の運転で事故った時、助手席の僕に再び、あの瞬間停止が起こったんだ。その前に『バー・クレバ』のことを聞いてもらいたい。かつて栄錦通りにあった老舗のショットバー。僕は学生アルバイトでもバーテンダー見習いが最高に収入もよく、新しいカメラが欲しくて、勇気を振り絞って面接を受けた。11月の中頃だった。電話をかけるとすぐに来いとのこと。開店直前で客はいない様子。恐る恐るバーの分厚い扉を開けると、蝶ネクタイが解けたままだらしなく首から下げる、バーテンらしき若い男に取り次いでもらう。すると巨体で強面のマネージャーが登場した。僕の頭から足先まで眺め回される。まだ客のいないカウンター席を勧められた。横に陣取ったマネージャーから、いきなりいくつかの質問を投げかけられ、正直に答えていくと、いったん彼は席を離れた。誰かと相談があるらしい。数分して舞い戻ると、明日から来いということになった。クリスマスシーズンに突入するし人手が欲しかったのだろう。

翌夕方に初出勤した。ここでは『おはようございます』から一日が始まる。ロッカールームで持参した白のワイシャツに着替え、支給されたベストに腕を通し、棒タイは蝶結びにする。ロッカールームで出勤したての先輩の背中や腕を目にして驚いたよ。チラリと刺青が目に飛び込んでくるではないか。でも皆優しかった。揃いのベストを羽織ると仲間意識も湧いてくるし、気が引き締まるもんだよ。先輩から手ほどきを受けたのは接客の手順ばかり。クレバは規模も大きくカウンターは総延長50メートルを超えている。そのカウンターは島のように五か所に分けて設置されており、マネージャーは来店客の傾向を見極め、どの島がいいかを決める。それぞれの島でチーフはカウンターごとの売り上げを競っていた。チーフ同志仲はいいが、各人の特質が面白い。客との会話を一番に考える奴。シェーカーの振り方に美学を持っているリーゼント・ヘアーの先輩。また調理師経験を持ち、サイドオーダーの売り上げに血道を上げる奴。地味だがカウンター売り上げがいつもトップで暇さえあればグラスを磨くことに賭けている先輩。その人間模様は他では見られない。

シェーカーの振り方やグラスの扱いなど達人の手ほどきを受けたかったが、同じカウンターに配属されることはなく心残りだった。ちょび髭の達人には憧れたもんだ。クレバに少しずつ馴染み、半月も経っただろうか。出勤すると各自カウンターの裏で仕込みを手伝いながら、配られた給食弁当を食べる習わしだが、冷えていて美味しいとは言えない。拓史は先輩スタッフの弁当からご飯だけを集めてチャーハンを作ってみた。皆の喜んだ顔は忘れられない。マネージャーに隠れてキッチンを使い、手際良くウィンナーと野菜をちょろまかし具材にした。一度マネージャーに見つかったがそっと見逃してくれた。先輩もかばってくれたのだろう。こうして数か月があっという間に過ぎた。先輩から一年働けばカウンターチーフだ。そう励ましもあった。この世界、同じカウンターの相棒が突然出勤してこなくなるのは当たり前で従業員の回転は速かった。シェーカーの振り方も見様見真似だが少しずつ自信をつけていった。一度も味見したことはないが。当時の僕は酒が呑めなかったからな。

春の歓送迎会シーズンを迎えた。二次会の客がこのバーにも流れてくる。連日大入り袋が配られる盛況さ。客たちは気取って難しいカクテルをオーダーしてくるが心配いらない。カクテルブックをカウンター下にみな隠し持っている。僕は先輩からカクテルブックを借りながら、一人前の振りをしてオリジナルカクテルを出してみた。(オリジナルカクテル持ってたら自慢できるぞ)、そう先輩から学習していったわけだ。団体客が入ってくると格好のチャンスが生まれることだってある。一群がボックス席を占領する。その中には必ずつまらなそうに飲めもしないカクテルを舐めている女の子がいるもんだ。ターゲットにするため注文を取りに行く。そっとターゲットの彼女に近づき耳元で、(今度はひとりでおいで)そう囁きながらオリジナルカクテルを差し出す。ライムジュースにブルーキュラソを合わせた。

「これきれいな色!」すぐ彼女は反応する。エメラルドグリーンを模してリキュールばかりで適当に作った代物。ロックオン成功だ。

まあこんなことばかりしていたわけじゃない。しかしこの世界で生きていくことが徐々に自分にはどうしても許せなくなっていった。結局一年で辞めた。いろんな思い出もある。男が女を口説くため、一つ覚えのように気取って『マイ東京』というカクテルを注文してくる客。カクテルグラスの口元をレモンピールで湿らせ砂糖でスノー・スタイルするんだが、あのとき間違えて塩をまぶしてしまった。クレームはなかった。またしきりに、『ウォッカベースで何か』と狙いもあからさまにオーダーしてくる客。狙いはただ同席の彼女を優しく酔わせたいだけのこと。口当たりも良いし、気付いた時には彼女は充分に酔いが回って罠にはまっている。そんな客には流しの汚れた水でチェスターを出してやった。そんなことも仕掛けて楽しんでたんだ。そんな自分を許し続けられるわけがない。

ー続くー

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