今池(いまいけ)の喫茶店

名古屋の喫茶店文化は華やかだ。現在も同業者間のモーニングサービス競争が激しい。価格競争に陥っている気もする。あの有名な〈コメダ珈琲〉も名古屋のビジネスモデルを全国に拡げた企業だ。

僕が勤めた当時、喫茶店の軽食と言えば、チキンライスとスパゲティ・ナポリタン。現代ではパンケーキ、スコーンなどを専門とするお洒落なカフェ乱立だが、いつの時代が来てもこの業種は開業しやすく、したがって潰れるのも早い。

あの時代、僕は一度喫茶店の運営を経験したくて、今池通りに面した小さな喫茶店でアルバイトとして働き始めた。数か月が経ち、慣れてくるとカウンターキッチンも任されるようになっていった。ここの従業員と言えば、経営者の老夫婦だけ。席数も四席しかなかったから、独りでも何とか切り盛り出来そうな規模であった。

午後の講義を早めに抜け出し、僕は喫茶店に向かった。その日はオーナーが出かけており、ホールは奥様が受け持ち、僕がキッチンに入った。もう慣れたものでコーヒーの淹れ方もプロのように振る舞った。そこへ男女二人連れのお客様が来店。オーダーはナポリタン・スパゲティ。さっそく調理を始める。気分は絶好調。一流のシェフ気分だ。フライパンを充分に焼き、ウインナー、野菜などの具材を注ぎ、手際よく仕込んであったパスタを投入。仕上げのケチャップソースを注ぎ、温めてあったステーキ皿に盛る。さらに半熟の目玉焼きをかぶせる。完璧な出来だ。客の前に出されてしばらく過ぎる。

「ゴキブリが入ってるぞ!」

お客様が訴えてきた。僕の血の気は引いた。一瞬で己の自信も失った。

「すぐに作り直します」

「いや・・・、もうええわ!」

もちろんお客様が帰る!とおっしゃれば引き止められない。むろん代金はいただけない。店主の奥様がその後処理をしてくれた。奥様は客にこう詫びた。

「この子が調理したんです。すみません。注意しときますから」

僕はこれを聞いてコケた。今しがた自信を喪失していた自分の正義感にメラメラと火がつく。これでバイトは辞めた。即日だ。僕にはこのゴキブリ事件に対する店主の対応が許せなかった。

ましてや心から詫びる精神の欠如、およそプロの風上にも置けなかった。悪いのは不注意な僕なのに。

© 2024 阿部写真館 徳島本店,大阪本町靭公園前店,茨城プレイアトレ土浦店